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『オーム・シャンティ・オーム』はインド映画じゃない

2017/07/12
category - 未分類
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 学生たちに見せたのだが、ちょっと失敗したかなと思っている。一般教養なので、とにかく映画の基礎が無い。うわぁ、インド映画だ、というところで頭が止まってしまっている。ネットを見ても、宝塚ファンを含め、同じような「バカ」ばっか。結局、見えても見えないのか。

 この映画が公開されたのは、ちょうどドイツのマインツ大学のメディア学部映画学科で客員教授をしているとき。ドイツ、とくにマインツはインド人が多いので、すぐにDVDが入ってきた。みな、かなり驚かされた。とにかくインド映画っぽくないのだ。

 スタジオの30周年記念ということで、1970年代から話は始まる。ちょっと調べれば、パロディとして取り込んでいるインドのヒット曲、ヒット番組がゴロコロ出てくる。昨年の『ラ・ラ・ランド』のオマージュ寄せ集めの手法を先取りしていた。しかし、それだけではない。話自体が、1980年の『カルツ』のミュージカル化リメイクで、オリジナルではない。主人公が生まれ変わった後のカプールという姓も、この元作品の主演リシ・カープルの映画一家がモデルであることを示している。

 にもかかわらず、インド映画っぽくないのは、シーンやカットがハリウッドの古典はもちろん、フランスの作家の撮り方を大量に取り込んでいるから。そもそもダンスシーン、ミュージックシーンがあるといっても、3つの撮影劇中曲の他は、同じテーマ曲の歌詞を変えたヴァリエーション。1つの映画でアルバム1枚というような、ナヴァ・ラサを重んじる、いわゆるインド映画の曲の付け方とは根本から異なる。

 なにより、主人公が、ハッピーでないとエンドでない、と言っているのに、話がハッピーエンドではない。カーテンコールにスタッフまでハッピーであるかのように踊って出てきて、うまくごまかしているが、これは、わかっていて、わざとやっている。これは、ふつうの量産型インド映画とは決定的に違う。もっと、ものすごく緻密な構成が張り巡らされている。

 前半は70年代の端役青年、後半は現代の七光りスター。映画業界を裏と表とから描き、表の中に潜んでいる裏を暴き出す。映画だと、同じ役者なので、かえって混乱するが、設定上は、前世のオームと現代のオームは、まったく顔も似ていない。ただ、母親だけが、遅くなっても帰ってくる、と言い残して死んだ息子だと気付いた。ぎゃくに、シャンティの方は、現代のサンディと顔がそっくりなだけで、まったくの別人。さらに、もともと70年代にシャンティ主演で撮ろうとしていた映画こそが『オーム・シャンティ・オーム』。しかし、シャンティの「不慮」の事故で、お蔵入り。それを、生まれ変わりで現代の七光りスターのオームが、もう一度、撮ろうと言い出す。つまり、この映画そのものを撮影する話がクラインの壺のように自己言及の劇中劇として埋め込まれている。

 この構造は、この映画そのものがたらふく抱え込んでいる大量のオマージュをも正当化する。演技すること、映画を撮ること、それが過去の膨大な作品群のレガシーの上で成り立っており、忘れ去られようとしていながらも、作品の亡霊として現前と立ち現れるイメージを再現することで、新しい作品となる。

 ヨーロッパなら受難劇、日本なら『忠臣蔵』のようなものを考えた方がわかりやすいだろう。なぜ繰り返し上演、映画化するのか。前の作品があれば、それでいいではないか。いや、そうではないのだ。作品そのものが輪廻する。ハッピーもなにも、エンドなど無い。永遠に繰り返し作られ続けていく。その中で、主演の俳優が、歴史の端役を演じ、また、言葉を残せず死んでいった人々の思いを語り出す。

 こういうややこしい映画の本質に関わる深い話を、バカでも喜ぶエンターテイメントで甘口コーティングして仕上げて売っ払らってしまったのが、この映画のすごいところ。気付くヤツだけ気付けばいい、ただ、ハッピーではないからエンドではない、それくらい気づけよ、というところか。黒沢の『羅生門』を改変リメイクした『去年マリエンバートで』とか、『サンセット大通り』を改変リメイクした『マルホランド・ドライヴ』とかと並ぶ厄介な構造でありながら、ああいうわざとらしい、もったいぶった難解さのかけらも見せない。が、インド映画だから、といって、バカ騒ぎしているだけの連中には、結局、なにも見えないのだろう。