ヘッダー画像

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

ホームページ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

    
            

スポンサーサイト

--/--/--
category - スポンサー広告
                         
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
                                 
                                      
            

芸術行為論

2010/06/20
category - 未分類
コメント - 0
                         
 デュシャンの泉は便器だ。あの時、それを出展することで画壇に一石を投じたことに意味がある。それをいま美術館に保存して、いくら眺めても、そこにもはや美などない。当たり前のことだ。これは他の作品でも同じこと。それが作られたときの状況が失われれば意味も失われる。

 もっとも傑作は、作者の想像や意図を越え、同じ作品が、まったく別の状況で、何度でも、みずから新たな意味を獲得する。まるで作品そのものが生きて語り出すかのようだ。このような特異性を持つに至った傑作は、古典と呼ばれる。

 だが、デュシャンの泉は、そうではない。終わった作品だ。美術史上の博物館的な意味しかない。演劇や演奏なども、そのときの気分や空気を吸い込んでこそ輝く。テレビや映画ですらそうだ。それは作品として保管しても、その作品の命まで取っておけるものではない。

 作品を保管するために誰にも見せない、というのはバカげている。すべての作品は滅びるべきものだ。そして、それが滅びることによって残るものがある。テセウスの船のように、壊れたらまた何度でも同じものを作ればよい。それでこそ芸術は生き続ける。
                                 
                                      

コメント

非公開コメント

    
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。