ヘッダー画像

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

ホームページ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

    
            

スポンサーサイト

--/--/--
category - スポンサー広告
                         
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
                                 
                                      
            

原恵一『百日紅』のこと

2016/10/20
category - 未分類
コメント - 0
                         
 うちの学生、数百人に見せたが、かろうじて半分くらいがどうにか、というところ。後は筋が追えない。まあ、芸術系の大学と言っても、なんの芸術とも縁の無い、芸術というものを商品として消費するだけの連中が、もともと半分以上。世間よりまし、という程度なのだから、まあいい方か。

 見た目で、アニメだ、などというと、とにかく取っつきが悪い。いわゆるアニメを嫌う原恵一。画法はアニメながら、思いっきりアニメの文法を否定している。記号的な喜怒哀楽の表情、表現をすべて無くしている。徹底的に無表情で無口。杉浦日向子の原作からして、記号的な、いわゆるマンガではなかったし、そこが大人に受けた。映画になったら、最後の走るところ以外は、起伏も無い。ただ淡々とエピソードが進む。つまり、クレショフスタイル。観客の側が、その無表情、無動作、無説明の向こう側の流れを追わないとわからない。しかし、残念ながら、映画の観客、とくにアニメだと思って食いついてくるような観客は、そんなに映画リテラシーが高くない。表情とセリフで、昔の村芝居のように大げさに劇中劇として全編を語り直さないと、わからない。

 そんな作りでも、うちの学生の何割かはきちんと全体の筋を追えただけたいしたもの。表面的には、原作のエピソードの5つくらいを使い、それにその他のエピソードのシーンをすこし割り込ませてある。原恵一が全体の流れを意図したかどうかはともかく、これらのエピソードやシーンが選ばれてきたのは、これらそのものが内的連関を持っているからだ。

 全体を貫いている筋は、北斎という画家が盲目の末娘に会おうとしない、という問題だ。そこには深い内面的な葛藤がある。だが、北斎は、いっさい説明などしない。オレ様のバカな観客は、なにを考えているか、わからない、ということで、ここでこの肝心の主軸を切り捨ててしまうから、どうしようもない。こんな内面の深い葛藤を抱えている北斎を側で追うのが娘のお栄。表面的な意味での「主人公」。だが、これはじつは観客のアバターにすぎない。そして、じつはもう一方のメインは、末娘のお猶。それこそ子供だから、いっさい内面を説明したりしない。しかし、このお猶の方も、父、北斎に会おうとはしないのだ。

 見た目の筋としては、北斎とお猶の間をいったりきたりして、お栄が両者を取り持とうとしている。だが、大きな筋としては、むしろお栄の方が、二人の間に入れない「あきめくら」だったことを思い知らされる、という話。お栄は、父、北斎の下で絵を描くが、北斎の模倣ばかりしている。また、お猶のところへ行っては、風景も何も言葉で説明してやる。お栄は、宮崎の『千と千尋』の顔無しと同様、原恵一が嫌うアニオタそのもの。けっして芸術家の世界には入れない。

 お栄はやたら目がでかい。瞬きもしない。見れば見えると思っている。お栄は降りてくる龍を必死にとらえようとするが、北斎はそんなことをするまでもなく、腹に龍を飼っている。お猶も、心の中に地獄の闇がある。お栄は、お猶に触れ、それを地獄絵にしてしまうが、投げ出しっぱなしで、北斎が手を加えないとならない。重要なのは、手のエピソードだ。遊郭に閉じ込められている花魁の首が伸びる、というのを見せてもらおうと、北斎も、じつは自分も「めくら」の手が伸びる、と、語る。たんなる思いつきだ、と北斎は言うが、お猶の病状が悪化して、北斎がとうとうお直を見舞ったとき、手を北斎の顔に伸ばすその手は、まさにその「めくら」の手。北斎は、会わなくても、お猶の闇の世界を見ていた。そして、その闇の世界を見ていたからこそ、会うのを恐れていた。生まれながらの病気は治らない。救いの無い地獄。仏が人々を踏みつぶして行く。だからこそ、北斎は自分がそこに降りて、なんとかお猶を救おうとする。

 「あきめくら」のお栄は、お猶を哀れむ。だが、お猶が言う蚊帳の上のカマキリを見て、お栄は、ようやく自分の方が見えていなかったことに気づく。北斎やお猶が見ている、目で見ない世界。心の内側をのぞき込むような視覚。お猶が死んで、お栄は駆け出すが、北斎は座っている。腹にお猶が生きているから。百日紅の花ひとつ、畳の上にあって、北斎はそれに話しかける。自分で来れたじゃないか。さんざん、自分の絵を描け、と言われていたお栄も、自分の中にお猶が見つかる。そして、それを絵にする。

 体験しなければわからない、って、男娼を買いに行ったお栄はすごいと思いました、みたいな、思いっきり勘違いした感想も続出する。見ればわかる、というのが、間違い。男娼を買ったところで、お栄の絵はやはり、心底から女好きの、絵の下手な善治郎にすらかなわない。目で見るのではない、広大な世界。それはときに闇の地獄。死んだお猶を腹に生かしている以上、北斎は死ぬわけにはいかない。しかし、それもまた仏が踏みつぶして行く。

 百日紅。夏の間、咲きほこる。しかし、夏が終われば夢まぼろし。原作は、杉浦日向子がまだお栄と同じ年代だったころの作品。自分がまだ北斎の見ている世界を見えないことを知っていたのだろう。百日紅は、あの江戸の幕末、そしてお猶。一方、原はむしろ北斎の年代だ。見てしまった世界を見えない連中に伝えたいと思ったのか。残念ながら、あまりうまくは行かなかったようだ。
                                 
                                      

コメント

非公開コメント

    
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。