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ロバート・マッキー氏の新著『ディアローグ』

2016/08/25
category - 未分類
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 手づから送っていただいた。恐縮至極。さっそく読み込んでいる。オースティンら日常言語学派のスピーチアクトの概念を拡張し、映画だけでなく、小説や演劇の対話の深層を分析している。もちろん、後期ヴィットゲンシュタインに言語ゲームというコミュニケーションの考え方はあるのだが、あれは静的で固定なルールを背景にしている。それに対して、マッキーは、ビートという概念で、アクションとリアクションのコンフリクト、むしろルールの主導権争いこそが、対話の本質だ、と考えている。

 例に挙げられているのも、『ジュリアス・シーザー』や『ギャッツビー』から『ザ・ソプラノズ』まで。あの年で、近年のものもフォローしているのは、すごいと思う。たしかに、昨今の米国のテレビのミニシリーズは、ピンポン曲芸のように饒舌で、その対話の中で局面がどんどん変わっていく。かつては暴力やエロ、麻薬のシーンが問題になったが、いまは、その会話の過激なやりとりのせいで、批判を浴びることもある。だが、その速射砲の応酬のような攻撃的な対話がウリなのだから、御意見上等というところか。

 とはいえ、個人的には、もう食傷気味。どれでも、同じようなノリ。やたら喋り捲るが、シーズンが終わっても、結局、なんにも話が進んでいない。思わせぶりなセリフの伏線の謎だらけで、次回へ、次シーズンへ引っ張るだけ引っ張るのだが、次回、次シーズンを見ても、すこしも変わらない。『バーン・ノーティス』なんか、なんとか第7シーズンで終わったが、ほんとにおもしろかったのは、第1シーズンだけかも。そのあとは、主要メンバーの親戚家族の紹介が延々。そんなの見る方も見る方だが、フィオナの雨蘭咲木子の吹き替えは悪くなかった。

 なんにしても、アカデミックな分析哲学がいまだに半世紀以上も前のスピーチアクト関連の原著の概念をこねくり回している間に、脚本を書く、という実践実用の必要から、現場で、どんどんより深い研究と工夫が行われている、という現実はなんとも。日常言語の研究なんだから、それは哲学者の本の中ではなく、我々の日常の中にある。研究対象は、図書館ではなく、目の前にある。
                                 
                                      

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