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映画版『鉄塔武蔵野線』を読む

2016/07/29
category - 未分類
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 今年の演習は、けっこうツワモノの学生がいるので、安っぽい話はできない。ここ数回は、ドラマ、それもミニマムなものからドラマの本質を理解する、なんていうことをやっている。アクションだの、爆破だの、無し。トリックのドンデンも無し。登場人物も少ないほどいい。2人のロードムービーがミニマムか、というと、日本には、1人、それも子供という、とんでもないミニマムなドラマがある。それが『鉄塔武蔵野線』だ。夏と言えば、これ。いったい何の話なのか。

 ただ鉄塔を1号まで追っていこう、というだけ。表面的には、おそろしくなにも起こらない。原作の小説と映画では、かなり設定や筋書が違う。個人的には、原作(これも、最初の単行本版と、映画の後に修正された文庫版と違う)より映画版の方がソフィスティケイトされていると思う。鉄塔を追うモティーフは、とてもシンボリックだ。映画では、これに父親の失墜というバックグラウンドを与えている。

 主人公、美晴の両親は夏の終わりともに別居する。武蔵野線、あのあたりは日立や東芝の大工場がある。前に千葉にいた、というから、東芝だろう。以前、茂原に東芝の工場があった。父親は、そこに努めている理系オタク。磁力発電の実験装置だの、天体望遠鏡で見る土星の環だのにはまっている。しかし、美晴は、答えない。母と長崎に行くことが決まっている。図書館で借りた『天草四郎』なんか読んでいる。

 友達は家族でどこかへ行ってしまった。残っているのは、2つ年下の、近所の暁。暁の父親も長いこと不在だ。父親が出て行ったのか、暁の方が二号の子なのか。この二人で自転車に乗り、1号鉄塔をめざす。一つ一つの真下に、潰したビール瓶のキャップを埋め込む。両親のことは、子供の自分ではどうにもできない。でも、鉄塔から「パワー」を得ることができれば、家族が元のように戻るのではないか。二人は、いろいろあっても、どんどん進む。しかし、日が暮れてくる。暁は帰ろう、また来ればいい、と言う。だが、また、は、無い。数日後には、彼はここにいないからだ。

 夜になって、暁との別れがくる。『銀河鉄道の夜』を思い出させるシーンだ。もう二度と会えない。それでも、美晴は野宿して先に進む。が、4号鉄塔でつかまって連れ帰され、長崎へ。ところが、次の夏、父親がひとりで死んだ。缶コーヒーばかり飲んでいて死んだ。美晴は葬儀に府中へ。 通夜で、父が言っていた「パワー」の話を聞く。あんな父とは違う、そう思っていた美晴は、父と同じだったこと、相似形だったことに気づく。この「停電」している家、家族に、メダルで「パワー」を取り戻そうとした一年前の夏のことを思い出す。彼は葬儀にも出ず、また1号鉄塔をめざす。

 暁の家は、雑草が生い茂り、もうだれも住んでいない。鉄塔と違って、人はばらばらになってしまった。美晴は、一人の自分の未来を求めて進む。そして、むしろ過去、父の影を追う。鉄塔に耳をつければ、父の声が聞こえる。ようやく1号のところにたどり着いたが、それは変電所の中で、立ち入り禁止。暑い夏、ラーメン屋。父が連れて行ってくれたラーメン屋に似ている。そこに草刈りの二人が食事にやってくる。変電所で働いているらしい。美晴は、彼らの軽トラの籠の中に隠れる。それでおしまい。

 繰り返されるプール、風呂、そして、籠。母胎回帰のイメージ。男型と女型の鉄塔は、しっかりとつながっている。通夜の停電。コンセントを見つめる美晴。なんのためにメダルを埋めたのか。途中に、死んだクワガタを紅茶の缶に入れ、電線の電気で生き返らせよう、というエピソードがある。美晴は、両親のことには触れない。だが、自分の家には「パワー」が足らない、それさえ戻ってくれば、両親がともに暮らす、自分の幸せな子供時代をもうすこし続けられる、と思ったのだろうか。父の死で1号鉄塔をめざす理由は、はっきりしている。「パワー」さえあったなら、父だってきっと生き返るはず。幸せな母胎のような子供時代が続けられるはず。

父親役は、菅原大吉。いかにもダメそうな、電圧の低い父親をうまく演じている。父親の喪失、家族の瓦解。表面上は、なにも起こらない。なにもあらだてない。別居予定の母親と父親がいっしょに黙ってスイカを食べる。父親の残した、まだ実の多いスイカの皮をクワガタにやる。しかし、そのクワガタは死ぬのだ。もっと強い「電気」さえあれば、生き返らせられるのに。

目に見えるものしか見えない人には、なにも見えまい。小津の映画に似て、足元では薄氷がぴきぴきと音と立ててヒビを拡げていっている。その薄氷の上を美晴は自転車で走る。氷は割れ、なにもかもが落ちて崩れていく。『スタンドバイミー』のような回顧譚でもないのにノスタルジックなのは、終わっていく夏休み、取り戻せない時間が、そこに凝縮しているからだろう。