ヘッダー画像

カレンダー

05 | 2015/06 | 07
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -

ホームページ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

    
            

『火花』が芥川賞?

2015/06/21
category - 未分類
コメント - 0
                         
 有名人にも、有名なだけなのと、結果として有名になってしまったのがいる。その中でも、秀才型で小器用なのと、天才型で救いようがないのとがいる。ジミー大西なんて、後者の典型だろう。たいぞうも似たようなことをやっているが、キレとハナが無い。このスタイルの勉強家なのがよくわかりすぎて、痛々しい。まして、鶴太郎は、努力に比して、才能の無さがあまりに悲しい。ようするに、作品として、作品以前の内なるテーマを捕まえる能力の問題。いくら絵がかけても、霊感を捕まえられない以上、作品は空虚だ。

 最近は、タレントも過当競争で、たけし以来、やたら小説だの映画だのにまで手を広げたがる。たけしの場合、根幹にあるのは反社会的暴力性のみ。勉強家で、うまく理論と模倣を掻き集め、作品に昇華させて均衡を保っているが、本人は才能の無さがつらいだろう。『火花』の神谷の同類だ。劇団ひとりも、『陰日向に咲く』でちょっと気にはなったが、ようやく書いた第二作の『青天の霹靂』は山田太一の『異人たちとの夏』のオマージュだかパクリだかで、しょせん小器用な勉強家なだけで、あわれなほどに才能が無い。

 又吉のは、驚いた。小説として隠すことに不器用なのだ。なんでこうなる、というオチの意外性の方向が、理屈ではなく、霊感のひらめきとしか思えない。『極道恐怖大劇場牛頭』と同様、彼自身にとっての先輩後輩の間の無意識の相互の疑似恋愛感情が、ねじれた現実として出てきてしまう。方言だらけの台詞回しなども、作られたもの、というより、彼の中でキャラクターたちがかってにしゃべってしまっているのだろう。もちろん、細かな処理については、彼が数多く読んできたものの影響があるようだが、タレント作家の多くがマーケット志向で模索するのに対し、こいつは自分の内面を探って、掘り出してきている。なんにしても、この話は、彼は書かずにいられなかったのだろう。

 でも、芥川賞だろうか? かってなイメージだが、芥川賞の方は、芥川龍之介御本人よろしく、お勉強家の文章芸人が理屈と技巧を駆使して「純文学」(中身の無い、文章だけの文章)の優劣を競うものかと思っていた。もちろん直木賞にしたって、浅田次郎みたいに売れ筋狙いのうまい商業作家のもののような。又吉が第二作を書けるのかどうか知らないが、へたに賞なんか取らない方が魅力的な気もする。いっそ芥川でも直木でもない、まともな大人向けの田辺聖子賞でもあったらよかったのにと思う。