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銀ちゃんが逝くは怒られるらしい

2014/02/24
category - 未分類
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 うちの大学のサブマリンが『銀ちゃんが逝く』をやって、街道に球団されたんだそうだ。「原作者であるつかこうへいさんに対してはすでに故人であることから、つかこうへい事務所に対して本事件の再発防止に関して申し入れを行っている。」って、どういう意味なんだろう? そもそも、なんの再発防止なんだろう? 再演は自粛しろ、という強要か?

 知っている人は知っているが、『ゆく』は『逝く』になって、えらい話になった。そもそも最初の『蒲田』から、つまり、つかが在日をカミングアウトする前から、五木あたりは、その中にある強烈な天皇制批判と反差別闘争の主題に気づいていた。つかほど、これらの問題に正面から取り組み、文字通り命懸けで戦った演劇人も珍しい。東宝の天皇と呼ばれた偽善者の黒澤なんかとは、わけが違う。鯖担ぎの典泥部落とその元締めたちのエピソードは、永遠に終わらない『逝く』の世界の、差別的宿業の無限円環を断ち切ろうと階段落ちに挑む銀ちゃんの受難の根本動機で、これを抜きに階段落ちは成り立つまい。イエスの受難劇で、磔刑は残酷だ、やめろ、と言うようなもの。そして、銀ちゃんが、逝く、ことによってのみ、ぐるぐる回る差別の円環は、不可逆にできる。ごちゃごちゃうるさい連中は、ほんとうにこの芝居を知っているのか? ケチをつける前に、まともにこの話のあらすじを説明してみろ。(じつは私にもさっぱりわからん。そういう芝居だ。もともと言われ無き差別が不条理なのだから、わけがわからないのは、当然。)

 階段落ちをやってのけたのは、つか本人にほかならない。これでもか、というくらい自虐的な差別を山盛りにして、その中を転げ落ちてみせることで、みごとに連鎖を断ち切ろうとした。だが、芝居も見ないで、差別的だ、まかりならん、なんていう連中が出てきては、彼も、どうにもなるまい。まあ、学生連中も、この作品に取り組むなら、作品としての人気だけでなく、その泥沼の背景まで踏まえて勉強し、腹を括って、最初から街道の連中まで巻き込んで、きっちり応援させてみせるくらいの周到な準備があって当然だった。そもそも、あれは、映画の『そして父になる』と同様、四人四様の「父親」の話で、天皇や祖国、血筋を含めて、父になること、父であることの意味を問うものだ。ションべん臭いガキごときが気軽に手を出す芝居じゃない。さはありながらも、他方もなんか百年前の古くさい球団を繰り返しているかのような話で、いろいろな意味で、とてもがっかりだ。これでは、いつか公平に、という意味の彼のペンネームが泣いている。
                
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